オタクが真に反抗しているもの

ある人々の言説や行いを解釈するのは危険な行為である。もし第3者として解釈したり批評したり批判したりするとすれば、それはいわゆる上から目線、つまり彼らの語る権利を剥奪することにつながる。一方、当事者として発言することは、他の同様な(とみなされる)人々の語りを僭称してしまう可能性をもつ。ここで私はSNS等でオタク的な人と度々関わっている人間として共感的な立場からオタクが何を目指しているか語ろうと思う。しかし、ここで語る内容は私の個人的経験と推測にもとづくものであることは注意してほしい。

もう一つ、ここでいうオタクは誰のことか注意しておかなければならない。オタクとは何かに極端に詳しかったり、夢中になる人々のことを指すことが多く、その対象はアニメであったりゲームであったり鉄道であったりとさまざまだ。しかし、ここではある種の物事の受け取り方や人とコミュニケーションの様式をもつ者としてオタクを捉えたい。彼らの物事の受け取り方やコミュニケーションの仕方が特定の話題に夢中になり極端に詳しいという結果を産んでいると考える。

とはいえ、オタクカルチャーは彼らの上記のような特性を反映しているだけではない。例えばある人がオタク的なコミュニケーション様式をもち尚且つクラシック音楽に夢中になることはある。しかしだからと言ってクラシック音楽がオタク文化になるわけではない。オタク文化は主流文化ではない、という意味でサブカルチャーであり、むしろ主流文化と対抗する(そして受け入れられない)という意味で対抗文化である。では、オタクカルチャーは主流文化の何に対抗しているのだろうか。

オタクが反抗しているもの

オタクが反抗しているもの、それは「人は社会に参加し、人間的な関係の中で、とくに人生のパートナーを見つけることによって幸せになる」という価値である。現代においてこの価値は広く流布している。ここでパートナーは性別は問わないし、伝統的な家庭を作る必要も法律的な結婚をする必要もない。1人で生きることも否定されないし、その人が選択すれば尊重されるべきとされる。とはいえ、社会に参加することは良いことだし、社会から孤立し人間的な関係を持たないことは不幸とされる。

しかしこの価値がオタクには抑圧的に働くのだ。というのも、オタク的な人々は複雑なコミュニケーションをこなすのが苦手であるし、そもそも他者とのコミュニケーションを好まない。したがって、オタクは社会参加に困難を感じるしそもそも大して興味もない。しかし、これは上述の価値からすれば不幸なことになってしまう。

さらにいえば、多様な人々のインクルージョンを目指す運動も、かならずしもオタクの利益になるとは限らない。たしかに、インクルージョンを目指す運動により社会がオタクをマイノリティとして受け入れる可能性も存在する。一方で、インクルージョンは多様な人々を尊重するという複雑なコミュニケーションを必要とする。これはまさにオタクが苦手とすることなのだ。個人的な趣味が許容される限り、オタクにとっては社会がステレオタイプにより動いている方が都合が良いかもしれない。というのも、ステレオタイプによる社会は一定のルールにより動く社会であり、オタクたちにある種の安心感を与えるかもしれないからだ。

インクルージョンにより多様な人々が社会に参加し人間的に交流する社会の裏側をオタクたちは見ているのである。それは、その理念とは裏腹に、人々が経済的利益・社会的地位そして人間関係における優位をもとめて競争する社会である。社会がインクルーシブになり多様な人々が社会に参加するほど、競争は激化する。それは高度なコミュニケーション能力を要求する社会である。オタクたちはこのような社会から弾き飛ばされてしまうのである。

ではオタクたちはどうするか。それは「二次元美少女たちとの幻想の共同体への撤退」である。

二次元美少女という問題

二次元美少女は男性オタク文化の一つの象徴である。二次元美少女の特徴を挙げてみよう

  • 可愛い:目が大きく見た目や振る舞いが幼児的である
  • 性の強調:不自然に大きなバストやヒップとそれの強調
  • 二次元:そもそも幻想の世界であり、現実との違いが意識されている

二次元美少女は男性オタクの性愛の対象であり幻想である。その少女性は速水螺旋人氏がSNS上で指摘した通り、服従記号と受け取れる。それは男性オタクが現実の女性を忌避し、自らの思い通りになる幻想にその性愛を向けていることの表れである。このように二次元美少女をとらえると、それが女性からみて「きもちわるい」ととらえられるのは自然だろう。男性オタクたちは女性を対等な人間と見做さず、みずからの性愛に服従させようとしている。しかしそれがかなわないので幻想の世界に逃避しているのだ、と解釈できるからである。

しかし、この解釈には問題があるように思われる。

少女たちとの同一化願望

SNSを見渡してみて気づくのは、少女愛の傾向がつよいオタクのなかには女装や美少女着ぐるみを着るものがいることである。その数は多くはない。しかし、異性装は「性癖」の一つとしてオタクの世界で受け入れられている。これはオタクの世界がさまざまな「性癖」に寛大であるから、という面もあるが、なにもかもが「性癖」として受け取られ認められるわけではない。たとえば、オタクたちの世界には人間関係で成功したもの(陽キャ)に対する怨恨と排除を感じる。

これを二次元美少女たちと同化したいという願望と捉えるのは自然なことだろう。これを補強するものとして「百合」がある。百合というジャンルは女性オタク(腐女子)のBLほどではないが、男性オタクの間で一般的なものである。これを他の男性を消し去ってしまいたい、という願望だとする解釈もあるが、むしろ少女だけの世界の一員に自らもなりたい、という願望の表れ、と考えるのが自然だろう。さらにいえば、いわゆるハーレムものの背景にも少女との同一化願望があると見ることもできる。ハーレムものは、なぜか多数の女性がみずからを愛してくれる、という都合の良い設定であり、みずからに服従する都合のよい女性をもとめるものと理解してしまうかもしれない。しかし、ハーレムものは決して力による服従の物語ではない。主人公があくまで少女たちの自由意志で彼女たちの世界に迎え入れられる物語である。こう考えると少女たちとの同一化願望が働いていると見ることもできる。異性に特に苦労もなくなぜか好かれたい、という幻想はオタクでなくてもあっておかしくないものであり、これをオタクにだけ帰属させるのは不公平ではないか。

幻想の共同体

男性オタクたちは少女たちの共同体へ幻想の中で迎え入れられることによって、競争にみちた社会から撤退する。そこには他者の優位に立とうとする人々は存在しない。優しい共同体のなかでは多様なアイデンティティ間の複雑な対立関係も存在しない。「ルリドラゴン」では少女がドラゴンに変身してしまうが、周囲は自然とそれを受け入れていくばかりか、むしろ主人公が他者との関係に気づくきっかけになっていく。これとカフカの「変身」を比べてみるとその違いが際立つであろう。

なお、オタク男性が少年たちの共同体へと撤退しないのは、オタク男性はスクールカーストの下位にあったためであろう。身体的な優秀さや度胸を競う少年社会は彼らの撤退の先ではないのである。もちろん、少女たちの共同体はオタク男性の性愛を満足させるものとしても機能している。とはいえ、これは派生的なものとみなすべきである。オタク男性たちはみずからの男性性を捨ててはいない。別にそのこと自体が悪いことではないし、性愛を充たそうとするのはべつにオタクに限ったことではないからそれに着目するのは的外れであろう。

ジェンダー論的な捉え方の問題点

さて、ここまででオタク(男性)たちが反抗しているものが明らかになったと思う。ここではオタク男性について語ったが、オタク女子についても大きく変わることはないのではないか。いずれにせよ、彼らが反抗しているのはそもそも「人は社会に参加し、人間的な関係の中で、とくに人生のパートナーを見つけることによって幸せになる」という価値観である。だから、ジェンダー論的にオタクを捉えることは的外れだ。たとえばそれを「伝統的な性役割への反抗」などと捉えることはできない。そもそもオタクが反抗しているものはジェンダーとは特に関係ないからである。もちろん、性愛は大きな問題であるし、現代の支配的な価値観に反抗した時、みずからの性愛とどのように関わるかは大きな問題である。しかしそこに主眼を置いてしまうと、オタクが本当に指向しているものを捉え損ねてしまう。

まとめ

本論ではオタクが現代社会で普遍的な価値とみなされる「社会参加・人格的な他者との交流・インクルージョン」に反抗していると述べた。また、ここにはジェンダーは関係していないので、ジェンダーに関わるものは派生的なものであって第一義的なものではない。したがって、ジェンダー論はオタクたちを正当に捉えることができない。

もちろん、オタクたちの行う「撤退」が良いことであるかどうかは別問題である。しかしそれを論じるのが本論の目的ではないし、そもそも他者の行為について倫理的は判断を下すことは問題含みであろう。