カブトムシの言語ゲーム

今回はウィトゲンシュタインの哲学探究に現れる「カブトムシの言語ゲーム」について考えたい。この議論は感覚の私秘性(自分の感覚を知ることができるのは自分だけである)を否定するものであると考える人がいるが、この議論をそのように受け取ってしまうとこの議論は論点先取である、というのが私の意見である。

議論を検討してみよう。

 さて、誰もが自分について、「『痛み』とはなにか、自分についてだけ知っている」と私に言う!――誰もが箱をひとつもっていて、そのなかには、私たちが「カブトムシ」と呼んでいるものが入っている、と仮定してみよう。誰もほかの人の箱のなかをのぞくことはできない。そして誰もが、「自分のカブトムシを見ただけで、カブトムシとはなにかを知っている」と言う。――この場合、どの箱にも別のモノが入っている可能性があるだろう。おまけにそれが変化しつづけていることも考えられるかもしれない。――しかし、このとき、その人たちの「カブトムシ」という単語の使い方があるとしたら?――それは、モノの名前の使い方ではないだろう。箱のなかのモノは言語ゲームの一部などではまったくない。なにかあるものですらない。箱が空っぽであることもあるのだから。――いや、箱のなかのこのモノのおかげで「短絡する」ことができるのだ。それがどんなものであっても消えうせる。  ウィトゲンシュタイン「哲学探究(丘沢静也訳)」293節

ここで、ウィトゲンシュタインは青色本で導入された言語ゲーム(言語の原初的な使われ方)の意味での言語ゲームを考えている。このゲームでは、私秘的な感覚を語るゲームの代わりに、手元にあるカブトムシを語るゲームが想定される。さらに、感覚の私秘性を他人がもつカブトムシを観察できないことと置き換える。にもかかわらず、このゲームに参加している人たちは自らのカブトムシについて語る。

このゲームに関してウィトゲンシュタインは次のように指摘する。各人が自分のカブトムシしかみることができない以上、とかの人がカブトムシを見ていることを確かめることはできない。確かめることができるのは他の人たちがカブトムシについて語る言葉である。しかし、言葉だけからは他の人は本当にカブトムシを見ているか確証はない。もしかするとハサミ虫を見ているが、それをカブトムシと同様の言葉で記述していのかもしれない。あるいは、そもそも他の人たちの箱は空っぽで、他の人たちはただ箱に何かがあるように振る舞っているだけかもしれない。だから、実は箱のなかに入ったカブトムシはこのゲームを実行する上では重要ではなく、重要なのは言語ゲームであって箱の中のカブトムシがあると想定する必要はない。

ところで、このような解説は本当にウィトゲンシュタインの解釈として正しいか疑問がある。例えば、ここで主張されているのは、正確には、「カブトムシ」という単語が「モノ」を表す単語の使い方とは違う、ということであってカブトムシがいない(私秘的な感覚がない)ということではないように思える。とはいえ、ここではカブトムシの言語ゲームは私秘的な感覚を否定するために持ち出されている、という(おそらく一般的な)やり方でこの一節を解釈する。

ところで、現実にカブトムシの言語ゲームを実行することを考えよう。すると、素朴に考えると箱が空っぽであるかどうかはすぐわかるように思われる。空っぽの箱を見ながら、中にあたかもカブトムシがいるかのように一貫性のある答えを返すのは通常の人間には不可能である。実際、証人がある事件を実際に目撃したか判断するのに証言の一貫性が用いられる。

では他人の箱にはカブトムシのかわりに蟹が入っていたとしよう。たしかにどちらもハサミがあるが、蟹を見ながらカブトムシであるかのように語り続けるのは不可能である。内部に複雑なコンピュータが入っており、私が行うカブトムシの記述を入力していくと、相手はそのコンピューターの指示に従って返答する、ということも考えられなくはない。そのコンピューターは私が入っているカブトムシと同じものを相手が持ってると誤認するように指示をだす、という可能性もなくはない。なくはないが、現実的ではないだろう。

では、私の箱の中に入っているものが私が初めて見る複雑な鉱物であり、他の人たちも未知の鉱物を持っているとしよう。この場合、お互いが同じ鉱物を持っているかどうか判定できるだろうか。じつは簡単に判定できる。私が各人に全くランダムなあるやり方で鉱物に光を当てるように指示し、その返答を受け取る。つぎに私も同じやり方で鉱物に光を当てる。結果が一致すればお互いに同じ鉱物を持っているし、違っていれば異なった鉱物を持っていることになる。

ここで反論があるだろう。まず私はあるやり方で光を照射するよう伝えて相手がそれを理解したり、あるいは一般に言語が機能し聞き手がそれを理解することを前提にしてしまっている。また、言語ゲームを実行するものたちの能力についても一定の限界を仮定している。これは適切だろうか。

しかし、青色本の言語ゲームは「ただそのように行われる」ものである、ということを指摘しよう。ゲームが機能する理由は考察の埒外である。言語ゲームの目的は、哲学的主張の内容を日常的に可能な活動に置き換えることにより、その主張がナンセンスであることを示すことである。上記の議論でウィトゲンシュタインは、私秘的な感覚を記述するという言語の使い方を、他の人が見ることができない箱にいるカブトムシを記述するという言語の使い方に置き換えた。ここでの言語の使い方は日常的に可能なものは仮定して良い。上記で示したのは、ウィトゲンシュタインは、私秘的な感覚に関する言葉の使い方を、日常的な対象についての活動に置き換えてた。しかし置き換えた活動に関するウィトゲンシュタインの議論は誤りであるから、この言語ゲームによる置き換えによって言語の私秘性について何か言えるわけではない。

さらに、ここでウィトゲンシュタインはたとえを使っているのであって、それが実際に可能であるかどうかをあれこれ議論することは無粋である、と考える人もいるかもしれない。しかし、ウィトゲンシュタインはおかしな例えをもちいるのがおかしな哲学の始まりであると論じた。例えが実際に事実として成り立っているかは検討されるべきである。

まとめると、ウィトゲンシュタインの「カブトムシの言語ゲーム」による私秘的な感覚を否定する(あるいは感覚の私秘性を否定する)議論は誤りであると思う。とはいえ、私も感覚を記述する言葉が例えば物理的対象を記述する言葉と同じであると考えているわけではない。しかしそれを示すにはより複雑な議論が必要だろう。