倫理学になぜしたがわなければならないのか
倫理学になぜしたがわなければならないのか
倫理学はつねに哲学の中心的課題であった。現代においては、倫理学は高踏的な人生哲学というだけでなく、現実の社会課題をとりあげる応用哲学の中心でもある。
さて、論理哲学論考でウィトゲンシュタインは倫理学を「語りえぬもの」とした。本論はウィトゲンシュタインの議論を再構成しつつ、倫理学のあれこれの主張(例えば肉食を避けるように勧める)にしたがう必要があるのかという問いについて考えたい。本稿の主張は、あらゆる倫理学の主張を無視する立場が整合的であること、である。この立場が実際に倫理的であるかどうかは本論の範囲外とするが、この立場の倫理学の「権能」に対する含意は検討したい。
この主張を考えるため、Wという人物を想定する。Wは異常なほど倫理感が強いが、一方でメタ倫理学も含め倫理に関する学問的議論を一切無視する。また、Wは原則、論理哲学論考で表明された立場を信じている。ここでの仮定は論理哲学論考が哲学理論として妥当なものか、ではない。Wがそう信じている、ということである。(これはコーラ・ダイヤモンドの「決断的読み」に通じる論考の解釈であろう)
本論はWの心性の物語の記述として展開する。
われわれの問いと違うもの
しかし、議論を始める前にわれわれの問いとこれまで哲学で問われてきた問題との違いを論じたいと思う。
まずわれわれの問いはいわゆる”Why be moral”問題ではない。というのも、Wは自らの倫理感にしたがわなければならない、という強い感覚があるからである。もちろん、Wが従わなければならないと感じている倫理が本当は倫理ではない、という可能性はある。しかし、それは「ある倫理的主張が倫理的か」という倫理学内部な問いであってWhy be moral 問題の問いではないであろう。
また、われわれの問いはどのようなメタ倫理学上の立場(例えば倫理に関する反実在論)でもない。正確にいえば、Wにとってはメタ倫理学上の立場ではない。というのも、Wは倫理に関するあらゆる学問的主張を無意味とみなしているからである。学問的議論によりいかなるメタ倫理学上の主張がなされたとしても、Wにとってはそれは倫理とは無関係な主張なのである。この点について、Wの内的生活を想像しながらさらに説明してみよう。
脱意味化
さて、まず命題の「脱意味化」とでもいうべき操作を考えてみよう。
論理哲学論考によれば、命題は(も)世界内に事実である。例えば、命題が紙に印字されるとそれは紙の上に置かれたある種の物質が一定のパターンをなすということであろう。(ここではパターンが世界内の事実であるのかどうか、という論点は問わないでおく。)また、ある人がそれを言葉として話せば、命題は空気の密度変化であろうし、コンピューターのストレージに記憶されれば、ストレージ内の半導体に蓄積された電荷のパターンとなるであろう。なお、このような物理的な対象そのものが命題ではなくて、なんらかの普遍者が命題であってこれら物理的対象はそのトークンではないか、と思われるかもしれない。仮にそうだとしても、普遍者はなんらかの意味で世界内の存在である。命題が普遍者であるかどうかはその存在論的なステータスの問題であって、それが世界内の存在者であることは前提とされている。われわれはWの内的世界が論理哲学論考にしたがっていると考える。論理哲学論考の立場では、世界は事実の集まりであるが、事実というのは物理的な事実だけを指しているのではなく、対象がどのような存在論的ステータスをもつかにかかわらず、世界内で成り立っているあらゆる事態のことである。
さて、このような「倫理的命題」にたいして、Wは「脱意味化」とでもいうべき操作を施す。論理哲学論考によれば命題の意味は事態との間にある写像関係にもとづく。論考によれば写像関係は語りえぬものである。したがってそれは世界内の事実ではない。事実ではない以上、Wはそれを無視してしまうことができる。写像関係は意味主体が命題と事態とのあいだにそれらを関係づける「見え」を与えることで成立する。この「見え」を削除してしまえば命題の意味は消失する。(この論点についてはいずれ別途論考を行いたい)
この感覚については、議論よりも物語のほうがよりリアルに理解できるだろう。J.G.バラードの「重荷を追いすぎた男」(『J・G・バラード短編全集II』)では、主人公はあらゆる対象の意味を消去していき、対象は「巨大な幾何学的ユニットのように実体のない形」となり、世界は「存在性を失うと、それは薄明りに浮かぶ柔弱で微光を放つ巨大な野菜の髄のようで、その正体をみきわめようとすると、いまにも頭がおかしくなりそうになるのだった。」となる。主人公はうるさい音を発する物体(妻)を殺害し、感覚自体が面倒になって自殺してしまう。(これを読んだバラードの妻は激怒したらしいが、まあそうであろう。)このような操作を行えば、倫理的命題も「幾何学的ユニットのように実体のない形」となり倫理的な含意を失う。脱意味化を行ったWにとっては、世界内に存在する「倫理的命題」は命題ですらないのである。
事実を表す命題と倫理的命題
ここで反論があるだろう。この「脱意味化」は単にWが文の意味がわからなくなるということでしかない。「汝殺すなかれ」という文章を脱意味化して意味がわからなくなったところで、人を殺してはならない。Wもそう考えるであろう。実際、この脱意味化という操作は倫理的命題以外の命題についても同じく適用できる。例えば「地球は太陽の周りを回っている」という命題を考えてみよう。この命題を脱意味化したところで、それでも地球は回っているし、Wもそう考えるであろう。脱意味化とは目の前にある文の意味がわからなくなるということでしかない、と。
しかし、Wは事実命題(「地球は太陽の周りを回っている」)と倫理的な命題(「汝殺すなかれ」)には本質的な違いがあると考える。事実命題は写像により世界内の事態と対応するものである。一方、Wにとって倫理とは、Wになにかをするよう・しないよう、強い倫理感を持って「しむける」ことである。命題がそうしないならば、それは単に世界内の音波や紙のしみである。「汝殺すなかれ」という言葉は、それが古代遺跡から発見された粘土版の文字ではなく、自分が生きる(例えば)聖書の言葉として受け取られるからこそ、倫理となる。逆に言えば、ある倫理的命題(とされたもの)が実際には行為主体に何も「しむける」ことができなければ、それは倫理的命題とは言えない。
しかし、Wがある命題を脱意味化してしまうと、その命題がWに何かを仕向けることはない。ここでのポイントは、「地球は太陽の周りを回っている」といった事実命題は、Wがその意味をわからなくなったとしても事態と関連づけられており、有意味であるということだ。一方、倫理的命題はそれがWに「仕向ける」ことが意味である。どんな命題も脱意味化を行うWに何かを「しむける」ことができない以上、倫理的命題は存在しない。
規則のパラドックスと倫理
Wが倫理的命題が存在しない、としているのだとすると、Wは倫理を持たない無軌道な人間であったり、倫理に関して不合理主義者であったりするのだろうか。必ずしもそうではない。このことを見るために、規則のパラドックスとの類比を用いよう。
倫理と規則はある類比がある。もちろん倫理は規則に従うことではないし、規則に従うことが倫理に反することもある。しかし、例えば「侵略戦争が許されない」という規範が確立されたとすると、その規範に従うことが倫理的であることの一部となる。また、「侵略戦争が許されない」という規範を実践する際には、規則のパラドックスと同様の問題が生じることに注意しよう。与えられた戦争が侵略戦争であるのかはつねに意見が分かれてしまう。
ここではウィトゲンシュタインのことばで規則のパラドックスを定式化してみよう。
私たちのパラドクスは、こういうものだった。「ルールは行動の仕方を決定できない。どんな行動の仕方でもルールと一致させることができるから 哲学探究201節
これは前節までの議論と対応しているだろう。倫理的命題を与えたとしても、Wは「脱意味化」によりみずからの行動を決定できないものにしてしまえる。
とはいえ、ウィトゲンシュタインは上述の定式化のあとに「そこに誤解があることは、私がこうして考えているあいだ解釈に解釈を重ねていることからも明らかである。」と述べる。
つまりこのことによってわかるのは、ルールの解釈ではないルール把握というものが存在していることだ… 哲学探究201節
つまり、解釈せずただ実践する、というルール把握が存在するからルールにしたがうことができるのである。倫理と類比させると、倫理が可能であるのは、それについて議論せずただしたがう、という倫理の把握が存在するからだ、となるであろう。このような倫理実践のモードにおいては脱意味化による倫理的命題の不成立は問題にならない。といういのもこのモードでは倫理的命題は命題として解釈されるのではなく直接的に実践されるもの、生きられるものだからである。脱意味化の操作が入る余地はない。
では議論せずにしたがう、という倫理把握によって行動するWは、しかし不合理主義者ではないだろうか。必ずしもそうではない。Wが議論せずにしたがっている倫理規範のうちに、倫理についてある基準のもとで議論することが含まれている可能性がある。たとえばムスリムはクルアーンやハディースにもとづく倫理にしたがう。ここにはクルアーンやハディースがどんな行為を倫理的としているか、の議論もふくまれている。とはいえ、ムスリムにとっては、そのような議論の結果にしたがうこと自体は議論の余地はない。信仰によって無条件に受け入れられていることなのだ。
Wにとっての倫理学
さて、これまでの議論からWには3つの可能性があることがわかった。1つめはWは自らが倫理的だと思っているだけ、という可能性である。2つめはWは倫理に関する何かの直感にしたがっているが、それを合理的に正当化しない、という可能性である。そして最後に、Wは合理的な議論により何が倫理的かを判断しているが、その議論実践そのものを反省したり疑ったりすることはない、という可能性である。たとえば、Wはキリスト教原理主義者の倫理にしたがっており、聖書のことばの個別の実践については議論するが、聖書自体の倫理性は疑うことはない、といった可能性である。
ではWは学問としての倫理学を受け入れるだろうか。現実に行われている自称「学問」としての倫理学の実践を無批判に受け入れることはあり得る。しかしそれは倫理学が目指すところではないだろう。学問的な営みである倫理学は、ある主張にただしたがこととは相容れないからである。一方、Wの観点からすれば、無限に批判が可能であり解釈の余地がある学問的な倫理学は倫理足り得ない。
注意して欲しいのはWが倫理学を受け入れないのは、倫理学がすべての規範を批判的検討の対象にすることであって、それが普遍性を主張するからではない。例えば、倫理をアイデンティティや文化に相対化したところで、それが倫理の批判的検討を行う限りWにとっては倫理ではありえない。例えば、Wがゲイのコミュニティでの規範にしたがう、ということはあり得る。しかし、ゲイの立場から倫理学を批判する、ということはWにとっては倫理ではない。
倫理学の権能
さて、これまではWの心性を追いながら倫理学にしたがわない立場を描いてきた。しかし、翻ってWの態度がそもそも正しいかどうか問うことができる。例えば道徳実在論に立てば、Wは誤っているだろう。
しかし、Wが誤っているか否かはある意味どうでも良い。たとえWが謝っていたとしても、Wは自身の誤りを認めないだろう。これは、Wが愚かであったり不合理であったりするためではない。上述のようにWはある種の合理性にしたがうことがありえる。しかし、Wは哲学における学問としての倫理学とは別個の、しかし合理的な議論にもとづく倫理にしたがっている。
倫理学は倫理に関して人々に意見を述べることが存在意義である。だとすれば、倫理学を無視する人々が存在し、説得不可能であるとすれば、倫理学の存在意義が疑問視されるだろう。
まとめ
本稿では、学問としての倫理学を無視する立場について、それがそれなりに合理的であり、論駁が難しいことを論じた。そしてそのことが、倫理学の存在意義を疑わせると論じた。
とはいえ、もっと現在行われているよりずっとつつましやかな倫理学的実践はありえるかもしれない。たとえば、キリスト教原理主義とイスラム復興主義が対立するとき、論点を整理して相互の妥協点をさぐる、などである。しかし、このためには倫理学のあり方を大きく変える必要があるだろう。